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平熱通信

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

情熱の馬鹿。

はるか昔。
そういえば壁ドンをしたことがあったぞ、という記憶は少なからず僕を動揺させた。
というか、現在、動揺真っ最中です。

だってこのオレがだよ。
笑っちゃうというか、それすら通り越して、引くわー。

でも、でもですよ。

気を失いそうになるほど恥ずかしい過去の記憶って、おそらく誰にでもあるのではないでしょうか。

夜中に書いたラブレターとか。

ギターを弾くのが趣味で尾崎豊ファンの友達に頼まれて、彼のオリジナル曲に作詞をしたら「うん……まあ、悪くはないと思うんだけどさ、お前は社会に反抗するような詞は書かない方がいいんじゃないかな。どうがんばって読んでも燃えてこない」と、すまなそうに言われたとか。

バイク雑誌の小説投稿コーナーのハードルが低そうだという噂を聞きつけて、バイクの事なんて全然知らないのに「そのエンジンの回転音がオレのハートをたかぶらせた。今日のオレの獲物はどいつだ。そう、オレは都会のハンター」みたいな小説を送っていたとか。

……。
……。
……。

(書かなきゃよかった)
過剰な情熱や思い込みの末にできたものほど、あとになって見直すと恥ずかしかったり照れくさいものになるのでしょうか。
本気になって何かに打ち込むということ自体は悪いことじゃないけど、「本気」を注入し過ぎて身の丈に収まらなくなり、あふれ出してしまった熱のようなものが、なにやら恥ずかしい思い出に変化してしまうのかもしれません。
言ってみれば「情熱の代償」というところでしょうかねえ。

本当のことをいえば、思ったことや伝えたいことは、なるべく静かに、普通の顔をして発信したい。
なんとなくなんだけど、ものすげー熱を込めて発信したものは、相手もものすげー熱量で受信するから、ものすげー受け入れてもらえるか、ものすげー拒否されるかのどちらかになってしまうような気がします。

人は(というか少なくとも私は)そうそう毎日情熱的に生きているわけでもないわけで、そうなると、なるべく長い期間、それこそ病めるときも健やかなるときも覚えていてほしいようなことは、静かな口調と静かな言葉で伝えた方がいいのかもなあ。

いや、こういうのはケース・バイ・ケースなのかもしれません。何かを突破したくて、自分でも扱いきれないくらいのパワーを、この一瞬だけでも放ちたい、ということも、まあ、たまにはあるのかもしれない。
やはりあの時は、壁ドンするしかなかったんだ。たぶん。
その情熱には相応の代償がついてくるけど。

そういえば。
バイク雑誌に小説を投稿していた件。
書いた小説が掲載されることはなかったんだけど、注目作、ということで記事の中にちょこっと紹介されました。
「ウチみたいなバイク雑誌の投稿コーナーにバイクの描写がほとんどない小説が送られてきた。かなりの異色作といえるが内容は悪くない。○○(当時のペンネーム)くん、もうちょっとバイクの勉強をして、またチャレンジしてくれ!」
……みたいな。
この時のペンネームが、これまた恥ずかしいんだよなあ。