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平熱通信

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

世界は美しい。

世界は美しい。

つい、そんなことを思ってしまったのだ。

手術の翌朝、主治医の診察のあと、右目の眼帯が外された。

世界が眩しい。

そういえば、もう何年も、左目ひとつで光を感じ、映像をキャッチしていたのだ。

もちろん、視界が半分であることの不便さは日々感じていたけれど、光の量についてはあまり違和感を感じたことがなかった。長い時間をかけてすこしずつ右目が使えなくなっていったので、目に入ってくる光の量の減少に無意識のうちに慣れることができていたのかもしれない。

光量半分に慣れきっていた僕の目と脳に、今日から倍の量の光が注がれることになる。そりゃあ眩しいだろう。そういえば、入ってくる情報の増加に脳がついてこれず、情報を処理しきれなくなった脳が悲鳴をあげることがある、と主治医に言われたっけ。具体的にいうと、大変な頭痛に悩まされることになるらしい。慣れるまでの辛抱らしいけど。

眩しさに目をしょぼしょぼさせながら退院の準備をする。会計を済ませ、病院を出ると、昨日、入院したときと景色が微妙に変わっている。いや、景色というか、色だ。

空の色が、木々の色が、雲の色が、昨日とは違っているのだ。

もちろん、空が赤くなったり、木の葉が紫になったりしたわけではない。

空は青で、木々の葉は緑で、雲は白い。

それはもちろんそうなのだけれども、昨日見たものとは明らかに違う色だったのだ。

何が違って見えたのか、うまい言葉が思いつかない。

「色の濃さ」とか「鮮やかな」とか「生き生きとした」とか、思いついた言葉がいくつかあったけれど、どれもピッタリしないような気がする。

手のひらに汗をかき、鼓動がはやくなり、なぜか涙が出そうになった。

僕の心は大きく揺り動かされ、感動していたのだ。

往来で泣くわけにもいかないので、病院そばのドーナツ・ショップに入る。

気持ちを落ち着けるためにコーヒーを買う。

コーヒーを待つ間、ドーナツが並んでいるコーナーを眺める。クリスマス用のドーナツがいくつか並んでいる。サンタクロースやトナカイ、スノウマンの形をしたドーナツだ。

帰宅したら家族と食べよう、ということで、クリスマスに関係あるのとないのと6つ買う。

店の外にある席でコーヒーを飲み、ため息をつく。

ここのカップは緑色で、かわいいロゴマークが描いてあって、割と気に入っている。

カップの中のコーヒーが美味しかったらいうことないのにな、と、コーヒーを買うたびに思う。

カップは圧倒的に緑色で、コーヒーは圧倒的に黒い。サンタのドーナツの帽子のところにかかっているソースは圧倒的な赤だ。

この世知辛い世の中で、いい歳をした大人が、臆面もなく言うのもどうかと思うが、僕の脳から生まれた言葉が、おそるべきスピードで外に出ようとしていた。

「そんな恥ずかしいこと言わないほうがいいって。あとで後悔するから」と、僕の理性があわてて追いかけるが追いつかない。タッチの差で言葉は僕の唇に到着し、音声として世界に放たれる。

僕は小さく呟いた。

「世界は美しい」