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平熱通信

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

自転車に乗って。

久々に自転車に乗る。

目の調子が悪くなってから乗らなくなってしまっていたので、ずいぶんと久しぶりである。もしかすると年単位で乗っていなかったのかもしれない。

リハビリというと大げさだけど、新しい目(お、ちょっとカッコいい言い回しだぞ)を慣らすように、ゆっくりペダルを踏んで、視界を確認する。

手術前に較べると各段に視界はクリアになっているが、やはりというかなんというか、病気になる前とは見え方が違う。自分の力でピントをあわせる機能がポンコツになってしまったので、くっきり見える範囲が狭くなっているのだ。

 

信号、隣の車線を走る車、前方の横断歩道を歩く歩行者などに視線を動かしても、特に見えにくいところはない。というか、予想よりもよく見える。これは助かった。自分で運転できる乗り物といったら自転車くらいしか持っていないので、これが使えないとけっこう困るのだ。

半面、ハンドルのあたりはぼんやりとしか見えない。ギヤがどこに入っているかとかサイクルコンピュータの液晶画面に何が表示されているかというようなことがよくわからないが、まあ、わからなくてもそんなに困らないので、これはこれでよし、ということにする。サイクルコンピュータなんてとっくに電池が切れているのだ。

それにしても。

速度と走行距離を表示してくれるだけの小さな箱の名前がサイクルコンピュータとは、なんか大げさだなあ、といつも思う。もっと慎ましい呼び名はなかったのだろうか。まあ、僕が持っているのはそれほど高機能ではないほうのサイクルコンピュータで、スゴイやつはなんかいろいろとスゴイらしいのだが。

 

駅ふたつ分ほど走ってみる。

車のジャマにならない程度に、ゆっくりと車道を走る。少し暑い。坂を上ると汗が出る(そして、今ビールを飲んだらそれはそれは美味いだろうなと思う)。ショルダーバッグにはCDが18枚入っていて、それなりに重い。借りたときは電車で帰ったからあまり実感がなかったが、バッグのストラップが軽く肩に食い込んでいる。

軽い負荷がほどよい達成感になっているからか、なかなか気分もいい。先週末、チェーンを洗って注油もしてあるので、自転車も機嫌がいいようだ。

 

目的地に着く。

自転車での移動で困るのが、目的地に着いたあとの駐輪スペース探しである。

特に駅の近くなどはどこもかしこも駐輪禁止だ。その上、今回は「違法に駐輪しようとしている者にダメだぞと注意する係のおじいさん」までいる。別にやましいところがあるわけではないのだが、自転車を停めるところを探していると、不思議と気持ちがコソコソしてくる。さっきまでけっこういい気分だったのに。

あたりを一通りチェックしてみても、どこにも駐輪できそうな場所はない。困った僕の視界に、なんとなくヒマそうに立っている「ダメだぞおじいさん」が入る。

おじいさん、ひょっとして駐輪場情報詳しいかも。

これはなかなかいいアイデアかもしれない。僕はおそるおそるダメだぞおじいさんに質問してみた。なぜおそるおそるだったかというと、ちょっと怖い顔のおじいさんだったからだ。

ダメだぞおじいさんは、愛想笑いのひとつもせず、

「私なんかにそんなこと聞いてきたのはあんたがはじめてだ」

と言ったのであった。「よくぞ聞いてくれた」という意味にもとれるし、「そんなこと聞かれても困る」という意味にもとれる。ちょっと怖い顔なので、気持ちが読み取りにくいのだ。僕が言葉を探していると、ダメだぞおじいさんは右手で遠くを指さしながらこう続けた。

「実は、この先に駐輪場がある。ふたつ先の曲がり角を右に曲がるといい」

ダメだぞおじいさんの顔がくしゃっとなった。笑ってくれたのかもしれない。

 

ダメだぞおじいさんの指示通りに自転車を走らせると小さな神社があり、その敷地の片隅に駐輪場はあった。駅からそれほど遠くもない。神社があることは知っていたし、境内にも入ったことはあるのだが、まさかここに駐輪場があったとは。灯台下暗し。井の中の蛙大海を知らず(これはあまり関係ないか)。

駐輪場には何かのマークが入ったペパーミントグリーンのポロシャツを着たおじいさんがいた。この駐輪場の管理をまかされている人なのだろうか。こちらのおじいさんの顔はそんなに怖くなかった。

自転車停めたいんですけど、どこに停めればいいですか、という僕の問いに、ポロシャツおじいさんは、

「ここは涼しいだろう」

と答えた。なんだか妙に味のある会話になってしまった。しかし確かに駐輪場は涼しい。風がある、というよりは、空気そのものが少しだけひんやりしている。

僕の答えを待つことなく、ポロシャツおじいさんは言った。

「ここは神社の中にあるから、頭の上は木ばっかりだろう。それだけでこんなに涼しいんだ。自然の森林浴だな。ま、蚊は出るんだけどな」

おそらく、「ま、蚊は出るんだけどな」というところがこのセリフのオチというか、笑うところなのだろうとは思うのだが、その前の「自然の森林浴」という言葉をうまく飲み込むことができず、僕は口をぱくぱくとしていた。いや、それ、何かおかしくないですか、と言いたいような、言わないほうがいいような。

僕が笑いもせずに立ちつくしていると、ポロシャツおじいさんは少し残念そうな顔をして、「あ、自転車は空いてるところに停めればいいから」と言いながら、すっと手を出してきた。手のひらを上に向けている。

手相自慢でもするつもりだろうか。

そんなことあるわけないことはわかっているのだが、ポロシャツおじいさん、というより、この駐輪場そのものが発する妙な違和感というか、日常と少しずれたところにいるような不思議な感覚が、僕の思考回路を微妙に狂わせていた。

ポロシャツおじいさんは、なぜか軽やかな口調で、こう言ったのであった。

「ほい100円」

何が100円なんだ。そもそも「ほい」ってなんなんだ。

そう思いつつ、僕は聞いた。ここ、ひょっとしてお金取るんですか。ここを教えてくれたおじいさんは、そんなこと言ってなかったんですけど……。

ポロシャツおじいさんは、軽やかな口調のまま、

「兄さん、この町ははじめてかい」

と言うのであった。

 

言われるがままに100円を払い、某レンタル店でCDを返却し、近くのカフェでアイスコーヒーを飲みながら、この文章を書いている。こういうことをいうと失礼なのかもしれないけど、このカフェは(少なくとも午前中は)いつもほどよく空いていて居心地がいい。マスターは(僕から見れば)若い青年で、とにかくにこやかで腰が低い。時々ノートパソコンを抱えてやって来てはコーヒーだけで2時間くらいねばっている僕のような客にもにこにこしてくれる(すみません)。そういえば、自転車で来たのは今日がはじめてだ。

 

今日はなんだか不思議な体験をしたような気がする。体験料として考えると、駐輪場で取られた100円なんてむしろ安いものではないだろうか、と思う反面、あとでマスターに、お店の前に自転車を停めてもいいかどうか聞いてみよう、とも思うのであった。