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平熱通信

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

新しいノート。しまわれたノート。

家族から測量野帳と南国カンガルーをもらう。

どちらもノートの名前で、測量野帳は薄くて固くて質実剛健。南国カンガルーはページ下半分がポケット状になっている個性派のおしゃれさん。

 

測量野帳は既に愛用している。

薄いのでちょっとした隙間にしまうことができるし、表紙が固いので折り返すと下敷き代わりになり、手持ちでの筆記も比較的楽。お値段もお安いので多少ラフに扱っても気持ちがビビらない。デザインも昭和のにおいがぷんぷんしてて大変よろしい。昭和レトロを意識した、とかいうのではなく、単純に古くさい。

ということで、ちょっとしたメモを殴り書きするのに大変都合がよろしいのである。

ただ、あまりにも気分よく使えてしまう分、なんでもかんでもとりあえずこれに書き留めるクセがついてしまい、ふと気づくと、「ちょっと他人には見せられない日記っぽい箇条書き」、「ちょっと他人には見せられないパスワード」、「ちょっと他人には見せられない……わけではないけど、必要があってメモした住所とか電話番号」などなど、このノート落としたら大変なことになるな、という状態になってしまっている。

気軽さの裏返しということなのだろうが、気軽に持ち歩くには重要なことを書き過ぎているというのがちょっと問題なのである。

そもそも、殴り書き運用なのでページがなくなったら捨てる想定なのだ。この状態では、捨てる前に一通り見直して他の何かに転記する、という作業は避けられない。それもけっこう大量に。

うーん。頭が痛い(面倒くさがりなんです)。

 

それはそれとして。

問題は南国カンガルーなのだ。

茶色の表紙の横長のリングノートで、「カンガルー」だけに各ページがポケット状になっていて、大変かわいらしい。

僕は、この手の、ちょっとしゃれてる系の素敵ノートを、うまく使いこなせたことがないのである。

 

字が上手くない人間にとって、素敵ノートを使うのは大変にハードルが高い。

素敵ノートは殴り書きのメモとしてではなく、保管用、というか、完成品、というか、とにかく「取っておくノート」として使いたい。そうなると当然、普段の100倍くらい丁寧に字を書かなければいけなくなる。

素敵ノートを手に入れたばかりの頃はそれなりにうきうきしているので、割と気合を入れてノートに立ち向かうのだ。問題はそのあとで、うきうきが治まり、手元に素敵ノートがあるということにフラットな気持ちになった頃、ノートに対して毎回気合が入らなくなり、その後もっと時間が経つと気合が入らない頻度がさらに高くなり、いつの間にかどこかの引き出しに格納されてしまうのである。

自分のノートなんだから、細かいことは考えずにのびのび好き勝手に使えばいいではないか、というアドバイスをされることもある。正論だと思う。

ただ、正論だと思う反面、「わかってないな」という気持ちにもなってしまうのだ。それは、もしも僕が、素敵ノートを「細かいことは考えずにのびのび好き勝手に」使ってしまったらどのような惨状になるか、よくわかっているからだ。あなたの好き勝手と僕の好き勝手は次元が違う。字が上手くない人間の破壊力をなめてもらっては困る。

 

今も秘密の引き出しに、表紙のゴムがびろびろに伸びてしまったモレスキンと、「これに手を出したら絶対に火傷する」とわかっていたのに、ブルーの表紙がかっこよすぎてついつい手に取ってしまったトラベラーズ・ノートが眠っている。かつてチャレンジして、健闘むなしく挫折してしまった素敵ノートたちだ。

(正確にいうと、モレスキンのびろびろゴムは見た目にあまりにも痛々しかったので切断したのだが、そうするとモレスキン度が7割くらい下がってしまい、大変申し訳ない気持ちになってしまった)

 

いつかは素敵ノートを使いこなしたい。気合いを入れればなんとかなりそう、というところまでは到達できるのだが、そこからがいつも大変なのだ。残念ながらいつでもどこでも気合が入るほど僕はタフにはできていない。すみません文具メーカーのみなさん。

 

それでも新しいノートを開くとつい「うふふ」と思ってしまうのだ。

これはいったいどういうことなんだろう、と自分でも不思議に思うのだが、文房具店で真新しいノートを見つけ、つい手に取ってしまい、挙げ句ペラペラとめくったりしつつ、表紙のデザインを眺めたりして、おまけに紙面をそっとなでてみたりするのはなぜなのだ。

 

とりあえず今は、カンガルーのポケットに何を入れたものか思案中である。

無意識にふと「うふふ」とか笑ってしまっていないか心配しつつ過ごしているのだ。