夏のせい。
土曜の暑い昼下がり、とあるカフェでノートパソコンのキーをぺちぺちと叩いていた時のことである。
店はそこそこに混んでいて、僕が座っていた4人掛けのカウンター席は満席になっていた。僕の左にはノートパソコンのキーを叩く30歳代くらいの男性がひとり、右には大学生くらいの男女。
僕は、頭に浮かんだ言葉をキーから入力しては、「今日は何を書こうかなあ」などと思案していたのである。「あめんぼ赤いなあいうえお」とか「じゅげむじゅげむごこーのすりきれ」とか打ち込みながら、今日、書くことを考える。わりとすぐに思いつくこともあるし、全然思いつかないこともある。
休日、特に予定がない日は、こうやって繁華街のカフェの片隅でキーをぺちぺち叩いていることが多いのだ。ここなら、キーを叩くのに飽きたら(もしくは、何も思いつかなくてキーを叩くに至らなかったら)三省堂にでもジュンク堂にでもロフトにでも東急ハンズにでもビックカメラにでもヤマダ電機にでも逃げ込める。逃げ込み先の分野がやや限定されているような気がしないこともない。
ま、それはそれとして。
その日は何も思いつかないほうの日であった。カウンター席付近のエアコンの利きは悪く、隣の男女二人組の声は大きく、何かを思いつくには不利な状況ではあった。
隣の男女が話している会話の内容は恋愛関連で、最近、とある男の子に交際を申し込まれた女の子が、別の男の子に相談している、という状況らしい。その上、「好きになるってどういうこと?」とか「付き合うってどういう状態?」というような根源的な問いも加味されて、けっこう熱く語っている。
話題として苦手分野だし自分のノートパソコンに気持ちを集中したいし、できれば聞きたくはなかったのだが、気持ちが高ぶっているのか声は大きくなる一方で、いやでも耳に入ってくる。
そのうち、男の子が茶化すような口調で、
「ぐだぐだ悩んでないでさ、付き合っちゃえばいいじゃん。軽い気持ちでさ!」
と言い放ち、それに対して女の子が、
「もうこれ以上……踏み込めないよ……」
と吐露したところで、店を出ることを決意した。
この調子では、そのうち物語のラストまで聞こえてきてしまう。なんとなくそれは避けたいと思ったのだ。
店を出る時に、ちらりとふたりのいるカウンター席を見る。女の子は飲み物に口を付けていないようだったが、男の子のグラスは空だった。そういうことなのかもな、と思った。なにが「そういうこと」なのか、自分でもよくわからないが。
店の外はぼわっと暑く、自然と日陰を探して歩くことになった。できれば別のカフェを探して、作業を再開したい。コーヒーが安くて、居心地がよくて、恋に悩む若者が近くに座っていないカフェを探してふらふら歩く。
日陰を探して歩くという作戦がまずかったのか、気がつくと大きな寺の前にいた。付近にカフェはない。以前、神社の中にある駐輪場を管理しているおじいさんに、「頭の上に木がたくさんあるところは涼しい」と教わったことがある。境内に入ると確かに外よりは少し涼しい。暑い、が、ぬるい、になったくらいの変化だ。
境内を横切って、大通りに出る。
大通りは容赦なく暑く、空とアスファルトがぼわんぼわんと熱を放出している。歩いているだけで頭がぼんやりとする。
とりあえずカフェを探そう。アイスコーヒーさえ飲めればこの際贅沢は言わない。隣の席に恋愛に悩む男女が座っていても全然かまわない。
そんなことを考えながら歩いている僕の目の前に、よりにもよってビール専門のバーと思われる店舗が現れる。
「今、ウチに入ったら、とびきり冷たくてとびきり美味いビールを飲ませてあげますよ」
というオーラのようなものが入り口からはみだしている。
ビールかあ、美味いだろうなあ、などと思いつつ、店の前を物欲しそうな顔をしてウロウロしていたら、中にいる店員さんと目が合ってしまい、恥ずかしくなりあわててその場を後にする。
今から考えると、そんなに飲みたかったのなら飲めばいいじゃないか、という気もするが、その時点ではまだ、「僕にはまだ、やり残した事があるんだ」という気持ちが強く残っていたのかもしれない。
こういうのは真面目というのではなく、単に要領が悪いのだろう。
ビール屋さんから離れたい一心で大通りの反対側に移動する。
ぼんやりとした記憶をたどると、たしかこの近くに知人が勤めている会社があるはずなのだ。なんとなくきょろきょろしてみると、見慣れた社名が書かれた看板を発見する。
発見した以上、当然のように携帯のカメラで撮影する。知人にLINEかなんかでこの画像を送りつけたら面白いかもしれない。それもいきなり、前触れなしに。
せっかくの機会に看板だけというのもねえ、などと思い、社名の書かれたシャッターとか、階数案内用のプレートも撮影する。そんなものを撮影してどうするんだという疑問については後で考えることにする。
……僕の撮影現場を、お巡りさんが注目していたということに気付いたのはその時だ。
お巡りさんは、その全身が「たまたま通りかかったという風情でいるけど、実はお前のことをあやしんでいるからね」と語っていた。
僕はあわてて「ふーん、5階なのか。なるほどね」などと下手なひとり芝居をしながらお巡りさんのいる方の反対方向に向かって歩き始めた。
そのまま歩けば駅に着く。今日はこのまま帰ってしまおう。
なんとも奇妙な休日になってしまった。いろんなところから立ち去ってばかりだ。
なんでこんなことになってしまったのだろう。
誰のせい?
それはあれだ、
夏のせい。