平熱通信:旧

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

朝の貸し切りエレベーター。

10階に行くために、エレベーターに乗り、「10」と書かれたボタンを押す。

10階に行きたい人間としては、至極まっとうな行動であるといえる。

 

エレベーターが9階に到着し、ドアが開き、何人かの人が降り、ドアが閉まる。

その後、エレベーターに、

「下に参ります」

と言われたとしたら、どういう対応をするのが正しかったのだろう。

あれ、ボタン押したはずなのに、え、反応してなかったの? なんで? 指の水分とか関係あったりするんだっけ? まさか加齢による指の皮膚の衰えとか?

……今朝の僕は、それだけ一気に考えた後に我に返り、ぐんぐん降りていくエレベーターの現在位置に一番近い階のボタンを押した。まずまずの動体視力と反射神経、と思ったのは勘違いだったようで、エレベーターは止まらない。

ならばその下の階、それがダメならその下、と次々とチャレンジは続き、結局のところ、非常停止ボタン以外はすべて押したんじゃないかというような、ランプ(ほぼ)全点灯状態になり、エレベーターは1階に到着した。今から考えると、出勤時間帯のエレベーターは、途中で止まらずに1階まで降りる仕様なのかもしれない。

 

1階まで降りてしまったエレベーターに乗っている、というのは、なかなか恥ずかしい状況である。

なにせ出勤時間帯だ。ドアが開けばたくさんの人が待ち構えているだろう。

ボタンが配置されているパネルのそばにたたずみ、降りるわけにもいかない僕としては、この際、

「上へ参ります」

と言うしかないシチュエーションではないか。

乗ってくる人が全員知らない人で、こちらをちらちら見ながら失笑している、というのならまだ耐えられる。よく知っている人が乗ってきて、爆笑されるのも大丈夫。

中途半端な顔見知りが乗ってきて、一応、目で挨拶なんかされて、そのまま無言、みたいな状況が一番ツラいのではないか。そんな予想をし、挙句、

そうなったら、このままエレベーターを降りて帰ろう

とまで決意したその時、運命のドアが開いた。

 

ここで奇跡が起きる。

 

開いたドアの前には、誰もいなかったのだ。時間帯から考えてかなりレアな状況のはずだ。

何台かある他のエレベーターに、そのとき待っていた人が全員乗り切れた、ということなのだろうか。エレベーターの中にいる僕には詳しい外の状況はわからない。僕にできるのは、誰かが乗ってくる前に、このドアを閉めることだ。誰かがやってきて、外からボタンを押されてたらおしまいだ。

僕は、映画『サマー・ウォーズ』の主人公の少年のように、

「よろしくお願いしまあーす!」

と(心の中で)叫び、ドアを閉じるボタンを押下した。

 

ドアは誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと閉じ、エレベーターはそのまま僕を10階へと連れていったのであった。

 

もちろん、僕のとった行動は大間違いである。

出勤する社員が集中する時間帯なのだ。エレベーターの使命は、一人でも多くの人を運ぶことなのである。

 

だかしかし。

そんなこと言ってられるか、という状況も、たまにはあるのだ。

 

追伸。

……もちろん、もしも誰かがドアの前にいた場合、さも用事があるような顔をしてそのままとりあえず降りてしまい、何食わぬ顔でエレベーター待ちの最後尾に加わる、という手口も考えなくはなかった。それをしなかった理由はただひとつ。

とても眠かったのだ。一刻も早く10階の休憩室で居眠りがしたかったのだ。

……つくづく情けない理由ではある。