平熱通信:旧

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

図書館の片隅の借り手のない本。

最初からそう思っていたわけではないのだけど、ここに文章を書くようになって、だんだんと自分の中にできあがっていったイメージでいうと、僕は「図書館にある、知らない作家の古いエッセイ集」みたいなものを書こうとしていたようだ。

 

それはつまり、図書館の棚のはしっこのほうにいつも置いてある、ハードカバーの本だ。

「これ、いつも置いてあるけど、誰も借りてないんじゃね?」

興味本位で手に取ってみると、紙の端が茶色くなっていて、それなりに古いものであることがわかる。著者名を見ても記憶にない。数ページめくってみても、それほど面白いことが書いてある感じでもなく、そもそも古いので、最新の情報など望むべくもない。で、ふーんとか言いながら棚に戻される。

 

そういうイメージなので、このブログに書いてある文章には、見出しもリンクも階層化された目次もなく、「続きを読む」機能すら使われていない(あれ、最初の頃使ったことあったかな)。いわゆるブログっぽい編集をほとんどしていない。あるのはタイトルと本文だけ。

 

その内容にしても、写真もほとんど使っていないし、時事ネタも扱っていない。そもそも紙の端が茶色くなっている本のつもりで書いているので、ナウいネタとは無縁なのだ。

時事ネタを文章に持ち込む時の便利なところは、「みんなが知っていることなのであまり説明をしなくても伝わる」ことじゃないかと思うのだが、このブログで文章を書く練習をしている身としては、それを極力使わないようにしてみたのである。

 

知らない作家の、古いエッセイ集のような文章を書く。

ということは、それは時代や流行に沿った文章ではないだろうし、他のサイトに飛ばしてインターネット的に面白がらせることもできない。知らない作家の文章なので、作者のキャラクターもわからない。文章を書く材料は外の世界にはほとんどなく、自分の中のガラクタでなんとかするしかない。

そういう状況にして、毎日とりあえず何か書いてみた。そうしたら、ちょっとは上手になるかしら、と思ったのだ。

 

そうしているうちに50日が過ぎ、なんとなくキリがいいので練習の成果を振り返ってみた。正直、そんなに上手くはなっていないような気はする(残念)。

上手くなっていないような気はするけど、上手くなることがあるのかもしれない、という気も多少してきたようなしてこないような……というのが、50日時点の感想だろうか。

 

50日続いたんだから、いったんゼロからやり直しても、今度は挫折せずに続けられるかもしれない。ひょっとしたら、100日とか、200日とか、3万年とか。

……なんて思いつつ、本文の更新をいったん休憩して、ブログの仕組みの部分について、少しメンテナンスをしてみた。今後、長く続くかもしれないので、それにあわせて手を入れた、というところである。ということで……、

 

【無粋なお願い】

今回のメンテナンスで、今までいじったことのない設定を変えたりしています。

その影響で、表示がおかしくなるというような障害が発生することもあり得なくはないので、もし何かありましたら、どうかご一報ください。

 

これはまったくの余談になるのだけれど、このブログに納められた文章について、100%本当のことのみで書かれたものはほとんどない。僕はもとより嘘つきだし、自分の頭の中にしかないことを目に見える文字に翻訳するのが面白かった、というのもあるのだけれど、感覚としては、本当のこと85%、創作15%くらいのバランスで書いていたつもりだ。だから、このブログに書かれた文章の大半は、正確な意味で日記ではない。どうせ創作が混じるのであれば、その部分については、なるべく楽しく、できれば面白いものが書けたらいいなあ、などと考えたりしている。

 

ただですね。

ここ数日間で、昔やっていたブログを読み返してみたら、これが(自慢しているような感じになったらごめんなさい)ちょっと面白かったのである。

昔のブログはもっと日記っぽい書き方をしていたのだけれど、日記には日記の良さがあるというか、真実が含まれる割合が多い分、軽いことは軽く、重たいことは重たく、いいことも悪いこともそのまんまダイレクトに伝わってくるという面白さがある。

自分が書いたものを「面白かった」などと書くのは大変恥ずかしいので、そろそろこの文章も終わりにしたいのだが、つまり、たまには本当の日記みたいな文章を書くのもいいかな、などと思ったりもしている。

 

結局のところ、今後も特にまとまりはなく、明け方にコーヒーをすすりながら、なりゆきまかせでいくのである。