平熱通信:旧

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

アサシン朝寝坊。

帰宅すると、飼っている犬(女子)がどこからかすっ飛んできて、僕の足元で何度もジャンプをする。足にしがみつき、ちぎれんばかりにしっぽを振り、頭をなでてやるとその手を甘嚙みしてくる。
これはもう飼い主冥利というやつで、むしろ「なんだかすまないねえ」という気分にすらなる。
僕は彼女のごはん担当でもないし散歩担当でもない(時々はやるけど、主担当ではない)。
なでて欲しそうに寄ってくればなでてやるし、早朝、起きているのがふたり(というかひとりと一匹)だけだったら、こっそりと犬用ビスケットをあげたりはしているが、逆に言えばそれくらいのことしかしていない。それなのにこの愛されぶりはどうだ。僕は家族の中で一番はやく就寝するのだが、朝、目覚めると、だいたいいつも手の届く範囲に彼女が寝ている。家族の話によると、眠たくなると自分で僕のベッドに上がるらしい。寝室のドアが閉まっている時は、開けてくれと家族にせがむそうだ。
犬は愛情をストレートに表現する動物だとは聞いていたが、いやあ本当ですねえ。
彼女は彼女なりに、僕がこの家族の代表者だと認めてくれているのだろうか。

と、昨日までは思っていたのだ。昨日、あることに気づくまでは。

彼女は甘噛みが大好きで、何かというと「ぜひ一嚙みさせてくださいなんならもう二、三嚙み」などと言いながら(いやもちろん本当に言っているわけではないですよ)ガブガブしにくるのだが、よくよく観察してみると、僕の体のある個所を狙って嚙みにきているようなのだ。
そこがどこかというと、手首なのである。
もっといえば、手首の裏側。
もっといえば、手のひらの延長線上にある部分。
もっといえば、手首を切りたくなった人たちがよく選ぶ人気エリア。
そこに向かってキバをあてようとしているようなのだ。
さらによく観察してみると、「噛ませて噛ませて」とおねだりしているときにはあんなにくりくりとしたつぶらな瞳をしているのに、いざ嚙みにくるその瞬間、眼差しが鋭くなることがわかる。表情が消え、ターゲットとの距離を正確に測る計測機器に徹しているその目、それはたとえるならゴルゴの目だ。

もしかしたら。
甘嚙みというのは単に結果であって、彼女は、僕の手首を本気で噛みにきているのかもしれない。
つまり彼女は、ボスの座を狙っているのかもしれない。
帰宅したときにジャンプしながら言ってるのは、
「お帰りなさいお帰りなさい帰ってきてくれてとてもうれしいです」
ではなく、
「オラてめえどこ行ってたんじゃコラア今日こそは決着つけてやんぞコラア勝負しろやコラア」
なのかもしれない。

僕のそばで眠るのも、家族が皆寝静まった深夜、そのキバを僕の喉元に突き立てようとしているからなのかもしれない。
その作戦がなかなか決行されないのは、彼女の性格がわりとルーズで、なかなか決行予定時刻に起きれないのではないか。そう考えると、朝、彼女が起きるときにとてもあわてた様子なのも納得がいく。ベッドから下りるときも、ジャンプというよりは転げ落ちているような「ぼとり」という音を立てているし、起き抜けで体が上手く動かないからか異常に歩幅のせまい小走りで僕に駆け寄ってくる。
これはつまり、
「おはようご主人ちょっと寝坊しちゃった」
ではなく、
「ああっまた寝過ごしたっ今日も失敗だっ」
ということなのかもしれない。

もしもこれが本当のことだったら……なんておばかちゃんなんだろう(笑)。