平熱通信

ここは世界の片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。

心配症は世界規模。

これだけ街中で外国人観光客を見かけるということは、もう、自分は観光地に住んでいると思ったほうがいいんだろうなあ、と、とある家電量販店でレジ待ちの行列に並びながら、再確認したのであった。

僕を真ん中にして前5人、後ろ5人くらい並んでいるお客さんが、すべて外国人なのであった。店員さんのいるレジは1台。2分くらい前にレジに何らかのトラブルがあったようで、店員さんが必死に対応している、という状況である。

前5人、後ろ5人の外国人たちの中に、なんとなくソワソワとした空気が流れているのがわかる。

「おいおい、なにがあったんだい」

「レジ壊れたのか」

「説明とかないのかよ」

日本語以外の言葉をまったく話せない僕にも、それくらいの空気は読める。

まずい。これはまずい。

もしも、この外国人たちが、僕になにか質問してきたら。

店員さんは自分の作業でいっぱいいっぱいということで除外すると、見渡す限りに日本人は僕ひとり。

日本人代表として説明を求められるという可能性も、まったくないとはいえないのではないか。

そういえば、みんながこちらをチラチラと見ているような気がする。

「何があったのか、あの眼鏡の日本人に聞いてみたらどうだ」

「なんかオドオドして、頼りなさそうだけどな、HAHA!」

買い物はあきらめて、もう帰っちゃおうかな、と思ったのであった。

 

外国からの観光客が増えたということで気をつけなければならないのは、記念写真問題である。

観光客というものは、それはもうたくさん記念写真を撮る。ここでしか見れない景色、建物、人々

……と、撮りたいものは山ほどあるだろう。

その中には、普段、そこに住んでいる人間としては、「なぜそれをわざわざ撮るのだ」と、つい思ってしまうものがたびたび含まれていたりする。

大型書店のマンガ売り場とか。

通勤ラッシュ時の駅のホームとか。

自動販売機とか。

「そんなもんわざわざ撮らんでもええやないか」と思ったりはするものの、気持ちはわからなくもない。僕も、慣れない海外旅行で舞い上がってしまい、ドイツの空港でごみ箱をひたすら撮りまくった経験がある。その時は、おそろしくかっこいいものに見えたのである。1ページまるまるごみ箱の写真で埋められたアルバムが、まだどこかにしまってあるはずだ。

問題は、あちらこちらで撮られている記念写真に、自分が写り込んでいる可能性なのだ。

こちらとしてはただの日常の一コマである場面が、彼らには撮らずにはいられないシャッターチャンスになっている可能性がある。

これが、いかにも観光スポットというような、こちらにも容易に予想できる撮影場所ならば、まだ警戒できる。あ、撮影しているな、と事前に察知し、なるべく邪魔にならないように行動できる可能性が高い。

これが、会社から帰る途中、疲れた顔をしてダラダラ歩いていたらどこかでフラッシュが光り、あたりを見回すと満面の笑みを浮かべた外国人観光客、というシチュエーションだと、もう対処ができない。

あれ、僕も写っちゃったかな、そもそもあの人、何を撮ったんだ?

と、モヤモヤした気分を抱えて過ごさなくてはならないのである。

それだけではない。

彼らが自分の国に帰り、旅行先で撮った思い出の写真を、フェイスブックなりツイッターなりに投稿することもあるだろう。その写真の中に、偶然にも自分が写っていたら。

自分の知らないところで、自分の顔や姿がネットに載り、世界デビューしているかもしれないのである。その範囲は地球規模だ。その中の、ほんのわずかな割合の人々がたまたま僕に目をつけてしまったとしても、人数としてはかなりのものになるだろう。

神のもたらした奇跡のような確率で、僕を見つけてしまった人々はこう言うかもしれない。

「1000年にひとりのサラリーマン」

「あの天使すぎるサラリーマンをさがせ」

僕の知らないところで、そんなエネルギーが生まれているのかもしれないのだ。そしてそれが、日本への外国人観光客が増えるひとつの理由になっていたりするかもしれない。

ここまでくるともう、何を心配していいのかわからない。